どうみても私は鈍感な女ではない
それが苦労の種なのだ
他人の感覚に無感情になれたら、人生はがらりと変わったものになるのだが。
無感覚でいられないために、この通り敗北者になってしまったのだ。
わたし自身の罪ではない。
それというのも、愛する人たちを傷つけることに耐えられないからなのだ。
将来はどうなることだろう?
わたしは一日に百ぺん そう自問する。
もう四十に近い、容色は衰えかけている、このうえ健康も衰えたら
_いろいろ苦労してきたのだから、衰えたとしても無理はない_
そうなったら この仕事を辞めて ケネスのくれるばかばかしいほどの別居手当で
暮らしていかなければならなくなるだろう。
まったく結構な見通しだ。
・・・省略・・・・
私は自分が頭がいいなどと言うつもりはない
そんな事を言った事は一度もない。
日常の問題を扱う場合は、常識は十分ある。
仕事を馘首(くび)になったことは まだ一度もない。
いつもこちらから退職願いを出してきた。
自分自身の為に何かを求めたり、自分自身の権利を主張したりする段になると、まったくそうしようもなくなるのだ。
折れてしまって、何も言わない。
私は一人の孤独な女にしては、あまりにも騙され、利用され、傷つけられてきたのではないかと思う。
運命、不運、なんと呼ぼうと それは事実なのだ。
・・・省略・・・
わたしの知りたいのは、
自分はいったいどこで人生の道を誤ってしまったのかということだ。
私が人々に親切にしてあげても、寛大であっても、
一度もその配当にあずからないというのは、どうしたわけなのだろう。
初めから終わりまで、私は自分の事は後回しにし、他人の幸福を真っ先に考えてきた。
医者にみてもらうと神経過敏だと言われ、睡眠薬を一瓶くれた。
私はいつもそれを枕元に置いている。
しかし私に言わせると彼の方が私より疲れている印象を受ける。
きのう別の約束で電話したところ、向こうの声が言った。
「お気の毒ですが、ヤードレイ先生は旅行中です」だが、それは事実ではなかった。
声の主が彼だという事はわかった。作り声をしているのだ。
どうして私はこんなに運が悪く、こんなに不幸なんだろう?
わたしはどうしたらいいのだろう?
破局(短編集)より:あおがい
※未必の悪意、善意のお節介、
いつの世にあっても困りものという典型例
自分がそうでない事を祈りたい
ダフニ・デュ・モーリエ
(Dame Daphne du Maurier, DBE, 1907年5月13日 - 1989年4月19日) イギリスの小説家