※過去に戻れるとしたら、何年前に戻りたい?
まだまだ若いはずなのに足腰に激痛(>_<)
整形へ行ったら、膝のサラがズレてる なんて言われちゃうし。
ケツ骨にヒビだし.......
受付の若いオバチャンに、
「やだよぉ~転んだの?
何もしてないのに痛いの?
大事にしなきゃ、まだ若いんだから。」 ←1970年代生まれでも、若いのだ!
「私も歳をとるとアチコチ痛くてね。
タイムマシンで若い頃に戻れないかねぇ。」←1900年代に戻ってみたい。
20歳でインドへ行って、
25歳頃にイギリスへ行って、
そんでもってドイツへ行って、ロシアかな。 メチャクチャだな。
この時代に生まれて、
平和に暮らして来たから好き勝手な事 言えるんだよ。
嫌ね、インドのコロナ感染の報道を観ててね、
タゴールやガンディーを思い出したのよ。
1900年代って、苦しい時代だけど偉大な方々が居たなぁ....とね。
ヒンディー語:ラビーンドラナート・タークゥル रवीन्द्रनाथ ठाकुर(टगोर)
1861年5月7日 - 1941年8月7日
インドの詩人 、思想家、作曲家。詩聖(グゥルゥデーウ गुरुदेव)
1913年には『ギタンジャリ(英語版)』によってノーベル文学賞を受賞。
アジア人に与えられた初のノーベル賞。
※宗教色が濃いゴーラ。恋愛話
インド国歌の作詞・作曲、およびバングラデシュ国歌の作詞者で、
タゴール国際大学の設立者でもあった。
タゴール国際大学は、ラビンドラナート・タゴールによって設立された学校で、当初は私学だった。
タゴールの死後、彼の盟友でもあったマハトマ・ガンディーらの語らいかけが実を結び、
ガンジーの死後である1951年に大学に昇格した。
当初は青空の元で伸び伸びと教える教室が良いとの考えから、青空教室だった。
タゴールは、西洋へ偏重した学校ではなくアジアに立脚点を置いた学校を理想とし、
そのため日本言語文化研究所や中国言語文化研究所なども設置された。
積極的にアジアと交わったタゴールは、日本の岡倉天心とも交友があり、
岡倉は弟子の横山大観らを引き連れて訪問していたという。
その縁で日本との交流は細々と続いており、
1961年には当時京都市立美術大学助教授だった秋野不矩が、
客員教授として赴任している。